2014年09月29日

早稲田大学代議員会に出席

今日もまた人工透析で体調はすぐれず。

夕方5時から早稲田大学大隈講堂で、早稲田大学校友会代議員会が開催された。透析後の重い体を押して車椅子でようやく大隈講堂に辿り着くと、大学の職員が待ってくれていた。講堂の正面は階段で登れないために、横にある車椅子用の通路を案内してくれて入場することに。講堂内には北は北海道から南は沖縄まで、全国各地から駆け付けた早稲田大学稲門会の代表者たち700人以上の方々で溢れていた。

 議事終了後、大隈講堂横の大隈庭園内にあるガーデン・ハウス(半円形の形をした総ガラス張りの学生用の大食堂)で懇親会が開催された。同席した古谷勝弘先輩は射撃部のOBで、早稲田大学稲門体育会の長老的存在だ。早稲田高等学院出身で、古谷先輩の在籍当時、早稲田高等学院は現在の文学部キャンパスのところにあったとのことだ。
 もう一人、早稲田大学WBS研究センター・ソーシャルアントレプレナー研究会の主任特別研究員高津晴彦氏と久し振りにお会いした。氏は目を患っていて、私はすぐ近くにいたがよく見えずに気が付きませんでしたと恐縮されていた。以前金沢市で行われた市街地活性化セミナーの講演会出演の際にご一緒し、10年振りの再会となった。恩師の柳孝一早稲田大学大学院ビジネススクール教授は一昨年退官されたとお聞きし、私が懇意にして頂いていた先生方も少しずつ教壇から去られるようになり、若干の寂しさを感じる。このソーシャル・アントレプレナー研究会は社会事業家たちの支援や育成活動を行っており、子育て支援や高齢者介護事業、東日本大震災・南三陸町復興事業(事業推進者―光永奏者1983年、アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、米国と日本を行き来しながら育つ)などに取り組む若手の社会事業家の講演会を主催。これらの若手社会事業家の活躍振りには目覚ましいものがある。こうした彼らの事業の中から日本の課題が次々と解決へと向かっていくことが期待される。

早稲田ソーシャル・アントレプレナー研究会
http://www.wsei.jp/

 混雑する会場の中で金子秘書課長が早稲田大学鎌田薫総長に声掛けしてくれ、6月の総長再選後はじめてお会いすることが出来た。総長のお話によると私の長男(政経卒―某ホテル勤務・早大ホテル稲門会幹事)とも先日ある会合で会ったとのこと。私と鎌田総長は早稲田大学の入学時が同年度(1966年)で、私たちが入学した当時は早稲田大学第一次学費値上げ反対闘争(大口昭彦全学共闘会議議長・後に大学除籍となる。その後京都大学に入学、卒業後人権派弁護士として活躍) の真っ只中だった。そのため私たちが入学後1年間は全学部授業が全く行われなかった。同年代入学の鎌田総長とはお会いすると昔話に花が咲く。
 東日本大震災発災の際、被災地から大漁旗を120枚お借りして大学全体のフェンスに飾りつけ、犠牲者の方々の鎮魂と被害者の方々への激励のエールを“早稲田の地”から届けたいと私が相談した際も、鎌田総長からは全面的に応援して頂いた。

風にはためく大漁旗
http://www.waseda.jp/jp/ct11/110914.html


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早大鎌田総長と櫻井 早大ガーデンハウスにて
posted by DNO理事長 at 23:14| Comment(0) | 早稲田のまち便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月28日

第三回早稲田かつお祭り 決起大会

9月24日(木)に穴八幡宮の坂の途中にある居酒屋「かわうち」で第三回早稲田かつお祭りの“決起大会”が行われた。
今日は人工透析を行ってきた日なので体調は思わしくなかった。それでも、学生さん達や若手の社会人のメンバー、第一回の際に獅子奮迅の活躍をしてくれた大手新聞社記者藤田太郎さんらも皆、今年の早稲田かつお祭りを大いに盛り上げていこうということで集まっているので、午後7時に何とか車椅子で会場に辿り着いた。
参加者は三々五々集まりはじめ、午後9時には私と一緒にこの「早稲田かつお祭り」を立ち上げた早稲田大学社会科学学術院教授の早田宰先生や早稲田大学周辺商店連合会の北上会長、同滝吉事務局長らが続々と集まってきた。第一回早稲田かつお祭り開催の時にはまだ政経学部の3年だった私の次男も会社の仕事を終え、参加してきた。
「かわうち」のご主人はこの日のために気仙沼から飛び切り脂ののった戻りガツオを取り寄せてくれていた。付け合わせのミョウガは只今売り出し中の「早稲田ミョウガ」ではなかったが、今秋はじめて気仙沼の戻りガツオを口にして大いに満足した。
その後さらに、一昨年まで早稲田大学副学長を務めていた政治経済学部堀口健治先生まで激励に駆け付けてきて下さり、会場は総勢30人以上に膨れ上がった。
私は乾杯のビールを一口と、気仙沼男山酒造の吟醸酒「蒼天伝」を小さ目なグラスで飲んだところで体がきつくなり一足先に失礼するこことした。店には段差が3カ所もあり新聞記者の藤田君と屈強な体の持ち主の三井物産の村田君の二人の肩を借りて、よろけながら車椅子に乗り、迎えに来た家内と家路へと着いた。
第三回早稲田かつお祭りは初日9月28日の戻りガツオ試食会を皮切りに、10月19日の最終日大抽選会(早稲田大学11号館前広場=当日は早稲田大学ホーム・カミング・デーが開催されていて構内は8千人以上の卒業生で溢れ返っている)まで3週間続く。機会がありましたら皆様も是非早稲田のまちにお立ち寄りください。

気仙沼ホームページ
http://www.kesennuma.co.jp/
かつおまつりホームページ
http://katsuomatsuri.com/index.html
江戸野菜ホームページ
http://edoyasai.sblo.jp/


かつお.jpg


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おさけ.jpg

posted by DNO理事長 at 23:34| Comment(2) | 早稲田のまち便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月26日

自分が生まれた日

★自分の生まれた日は昭和22年(1947年)1月1日
茨城県稲敷郡上太田(現牛久市)にある母の実家で自分は生まれた。母の家は今は農業を営んでいるが、江戸時代には500石扶持の武家だった。そんな歴史を持つ母の実家は、ただでさえ年始の挨拶に訪れる来訪客の多い元日の朝に赤ん坊が生まれ、家はてんやわんやの騒ぎとなった。
早生まれなので、いわゆる団塊(1947年4月生れ〜1950年3月生れ)の世代より一学年上だが、団塊世代の生まれた年でいえば一番バッターのような誕生日。
団塊世代。
作家の堺屋太一氏が1971年に発表した小説「団塊の世代」から名付けられたこの世代は、昭和22年から24年までの3年間に800万人もの出生数を数える。1年間で約267万人。平成15年の出生数が113万人であることを考えると、その数の多さに改めて驚かされる。
そんな団塊の世代のひとりが、どんな生い立ちで、どのように人生を歩んできたのか。他愛のない話ではあるが、その生き様を記すことで、同世代と“共有した時代”について共に想いを馳せることができれば、次世代にも少しは何かの足しになるのではないか。

自分の小学校は、早稲田大学から徒歩5分ほどのところにある新宿区立戸塚第一小学校。同戸塚第一中学校(現・西早稲田中学校)、東京都立赤城台高校(現・東京都立山吹高校)を経て、現在の早稲田大学エクステンションセンター跡にあった早稲田ゼミナールで一年浪人の後、1966年4月、早稲田大学政治経済学部経済学科に入学。
学校にはすべて徒歩で通学、その中でも大学は自宅から徒歩1分という距離だった。そして、卒業後もずっと早稲田の地に住み続け、早稲田大学にも関わり、早稲田のまちで働き続けてきた。いわば、生え抜きのワセダっ子ともいえる。
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