2014年10月31日

ある団塊 父が早稲田で「松風」を開業

昭和32年、父が戦死した兄との思い出の地で飲食店を開業

 昭和32年秋。父が戦死した兄・三郎との思い出の地で飲食店を開業した。自分が小学校4年の時だった。前経営者の鈴木さんという方が営んでいたうなぎ割烹「松風」を居抜きで購入し、屋号毎引き継いだ父は、3ヶ月間ほど母と共に見習いで料理の基礎を学んだ。“武士の商法”ならぬ“軍人の商法”だった。

 当時ご飯と味噌汁に煮物や焼き魚のおかずとお新香の定食は40円、味噌汁が豚汁になると60円の時代だった。戦後ようやく10年を経た頃の早稲田の商店街はまだ店数も少なくモノも不足気味のせいか、店は朝早くから客で溢れていた。二階の座敷はよく宴会も行われ、沖縄稲門会の宴会のときなどは当時の大濱信泉総長もよく来店された。小学生だった自分は総長の弾く蛇味線の陽気な音に引かれ宴会最中の部屋についつい侵入し、皆に可愛がられた。

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*大濱 信泉(おおはま のぶもと、第7代早稲田大学総長(1954年 - 1966年)

大隈通り商店街 地図スキャン.docx

1970年頃の大隈通り商店街 マップ
*上の≪地図スキャン≫の部分をクリック。次に画面左下の逆三角形をクリック。
≪開く≫をクリックでご覧になれます。ウィンドウズ8で対応。
「松風」はマップの左端の上。蕎麦屋金城庵の斜め前。

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※松風の前で母と妹

 このような環境で育ったせいか、酒もタバコも小学生の頃から覚え始めた。特に酒は、父も長男の自分に男同士の晩酌の相手をさせたかったのだろう、付き合ったことを思い出す。

ある団塊 No.4 2014.10.31

2014年10月27日

KITTE伝統工芸展に行く

学生時代の友人がKITTEに出展


10月27日
妻と東京駅前のKITTE「日本のモノづくりへのこだわりと日本ならではの美意識を感じさせる物販店舗が数多く入居」(元日本郵便ビル)で行われている金沢伝統工芸展に行く。昨日から出展(水曜迄)している学生時代のクラスメイトN氏の経営する会社が、柿渋を使って製造している和紙の作品を鑑賞。便せんや封筒など、出色の作品が並ぶ。現代社会では人は大方のコミュニケーションを電話やパソコンで済ませてしまう。手書きの手紙を書く人などほとんどいなくなり、こだわりの和紙に書かれた手紙を遣り取りする“ぬくもり”のあるコミュニケーションを交わす相手がいることの何という贅沢なことか。


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KITTE アトリウム

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N氏の出展ブース

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伝統和紙で作られた様々な作品

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KITTE横の新しく復元された東京駅の全景


posted by DNO理事長 at 23:24| Comment(0) | 早稲田のまち便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月26日

戦死した兄と父との思い出の地 早稲田

自分がこの世で出会わなかった二人の伯父

 伯父の学生時代、早稲田のグランド坂上に友愛学舎(現在の早稲田奉仕園の隣り)というキリスト教の学生寮があり、クリスチャンだった伯父はここに下宿していた。父は現在の防衛省がある市谷の陸軍士官学校にいたが、休日になると兄のいる早稲田のまちを訪ね、今はなくなったがグランド坂上の『甘楽』(現・八幡寿司の隣り)という甘味と食事の店で、よく兄とひと時を過ごしたといった話を聞いた。伯父と父とは旧制土浦中学時代、どちらも相手が先に寝るまで勉強を競い合ったといい、兄弟の中でも特に仲の良かった兄との思い出深い地でもある早稲田のまちを、父は忘れがたかったのだろう。この伯父は、自分の手元にある原戸籍謄本を見ると昭和20年8月16日の日本が敗戦した日の翌日に、フィリピンのミンダナオ島で戦死した。

 因みに父の長兄武雄(宮沢賢治が在籍した盛岡高等農林学校―1902年・明治35年、食糧増産および農業技術者、また農業教員と中堅技術官吏の育成を目的として設立された、官立では日本最初の高等農林学校―現・国立岩手大学卒業)も、ニューギニアのアドミラルティ諸島での米軍との戦いで、昭和19年5月31日に戦死した。
 戦後、祖父・藤次郎(日露戦争で乃木将軍の下203高地での戦いに参戦)は生前、出来のいいのが皆死んでしまったと嘆いていた。

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※勲章を胸に付けた祖父(中央)

 父は昭和20年1月、敗戦直前に、米軍が房総半島沖九十九里海岸から上陸し、首都・東京に攻め入るとの情報で、本土防衛のため満州から日本に帰任してきた。戸籍謄本を見ると母との婚姻日は4月5日となっている。
もし父がソ連参戦後も満州に留まっていて、シベリアに抑留されたりしていたら、自分はこの世に生を授かっていなかったかもしれない。

 父は時々、兄2人を戦争で失っていたので靖国神社に参拝に行っていた。しかし8月15日や靖国神社の春秋の例大祭の日などは避けて、普通の日に一人でひっそりと参拝していた。国に命を捧げた職業軍人である自分が生き残り、召集されて戦死した二人の兄やノモンハン事件で多くの部下たちを失ったことに悔恨の念にかられていたのではないかと推測している。

 今のように閣僚や国会議員が列をなして靖国神社に参拝する姿は異常ではないか。天皇制についてもあまり肯定をしていなかった(殊に昭和に入っての満州事変や日中戦争から昭和20年迄の天皇制)。アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)で命を失った230万人の軍人・軍属と80万人の非戦闘員の日本人。そしてこの大戦での2000万人とも3000万人ともいわれる中国やアジアの国々の夥しい数の犠牲者達。

 早稲田大学・大隈講堂の脇、ガーデンハウスへと向かう歩道の一角に「平和祈念碑」がある。日中戦争から太平洋戦争にかけて戦没した早稲田大学の教職員や在学生、校友ら4736名を悼む碑である。自分の伯父もこの中の戦没者の一人である。この碑は敗戦から45年が経った1990年の創立記念日に建てられた。

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   大隈庭園にある平和記念碑

 団塊の世代でいえば、わずか数年前、十数年前に生まれていたなら、原爆や焼夷弾で、あるいは特攻隊員として、不本意な死を遂げていたかもしれない。その意味でも、平和な時代を享受してきた団塊の世代は“不幸な時代に生きた人々”に思いを致して、歴史の現実にしっかりと対峙して、複眼的に様々な角度から歴史を検証し、学び直していく姿勢が求められている。

 
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