2014年11月25日

二人の男と日本人の心

●『役者道』高倉健と『相撲道』白鵬
高倉健が亡くなった。男性の平均寿命が81歳の時代、83歳という年齢は決して短命ではない。しかし何故かその死が惜しまれる。
学生時代からそして社会人になってからも、昭和残侠伝シリーズ・唐獅子牡丹や網走番外地シリーズなど高倉健の映画は、東映の映画にもかかわらず、映画館は何故かほとんど高田馬場の早稲田松竹で観た。最終上映回は午後11時をすぎていたが、そんな時間帯でも立ち見も含めて立錐の余地もない程毎回、館内は観客で溢れ返っていた。

不条理な仕打ちに耐え、ついには復讐を果たす高倉演じる主人公は、自分はノンポリだったが学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男たちに熱狂的な支持を受けた。通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると皆主人公に自分を重ね合わせ、映画館を出ていったときのあの高揚した気分が忘れられない。

http://www.youtube.com/watch?v=Lf2HqsCoA0w

※高倉健 映画「唐獅子牡丹」 主題歌

その後『動乱』や『八甲田山死の彷徨』『幸福の黄色いハンカチ』など、高倉健は任侠路線から決別していくが、決して演技派俳優ではなかった。ただ、そのストイックな生き方といい、ベールに包まれた私生活といい、彼の生き様に強く惹かれるのは何故なのだろうか。「自分は常に日本人でありたい。世界のどこにいても、仕事でどんな役を演じても、自分は常に日本人です。」そう語った高倉健。
中国外務省報道官も、高倉健の死去について異例の哀悼の意を伝えるコメントを出した。

一方で、昨日大相撲で大鵬に並ぶ32度目の優勝を成し遂げた横綱白鵬。
「この国の魂と、相撲の神様が認めてくれたからこの結果があると思います」と語りながら目頭をぬぐう白鵬もまた、日本人以上に日本人の心を感じさせる。「角界の父・大鵬親方の偉大な記録に並んだことは、約束と恩返しができたと、そういうことです」。人生の師匠は大鵬と語る白鵬。

『役者道』と『相撲道』。二人が歩んできた“道”は違えども、共通するのは、“無骨”で“不器用”で“一途”な男の生き方。だから二人の『道=生き様』に人は共感するのだろう。
posted by DNO理事長 at 00:30| Comment(0) | 早稲田のまち便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月24日

ある団塊 小学校編

早稲田大学は地域の子ども達の格好の遊び場 その2

●鬼官と甘泉園 
甘泉園は、江戸時代に徳川御三家の一つ尾張徳川家の拝領地だった。その後清水家の江戸下屋敷が置かれ、明治以降は、相馬子爵の庭園として整備され、昭和には早稲田大学が譲り受けた。昭和44年に新宿区立公園となった。園内にはツツジの花やアジサイ、新緑やモミジの紅葉、冬の雪吊りなど、四季折々に見どころがある日本庭園として親しまれている。

自分が子供の頃は甘泉園は早稲田大学が所有し周囲が鉄条網で囲われていた。ろくに整備もされていなかった甘泉園の池で地元の子ども達は鉄条網をくぐり抜け、ザリガニや小魚捕りに熱中して遊んでいた。時々どこからか鬼官(「おにかん」と子ども達は呼んでいた大学の警備員)が見回りにやってきては、“コラー”と大声をあげて餓鬼どもは追っ払われたものだ。

甘泉園門.jpg

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「甘泉園」の名は、ここから湧く泉の水がお茶に適していたところからきたと言われている。

かんせん園ゆきずり.jpg

●大隈講堂の時計台に登り鐘を乱打
一度R・Kと一緒に大隈講堂のテッペンまで登ったことがあった。夕方の日が暮れ始めた頃だったが、二人は講堂正面の鉄の柵を乗り越え、薄暗い階段を途中まで登り、その先の鐘の所までは鉄製のハシゴを登ったように記憶している。それから持参した木の棒のようなもので鐘を乱打し、見回りの鬼官が来る前までに必死に階段を降りて、急いでその場を立ち去って逃げていった。

大隈講堂鐘写真 2.jpg

ある団塊 No.12 2014.11.24.

2014年11月23日

ある団塊 早稲田のまち 小学校編

早稲田大学は地域の子ども達の格好の遊び場
●話は早稲田の地に戻る。
昭和30年代の始め頃、住んでいた早稲田のまちの中心的存在である早稲田大学は早稲田の餓鬼どもにとって格好の遊び場だった。大学の教室に侵入し、路上にいたずら書きをするのにチョークを失敬したりするのは日時用茶飯事のことだった。

●甘泉園公園と水稲荷神社とソフトボール
現在の早稲田大学西門と正門の間は、近所の人々の坂上と坂下を結ぶ、まちの人達が行き交う通行路だった。早稲田大学と土地を交換して安倍球場グランド坂上の甘泉園公園の横に移った水稲荷神社は、自分が小学校6年当時(昭和34年)、早稲田大学の法商研究室9号館・法学部8号館の裏手にあった。
水稲荷神社の参道は、早稲田通りに面した今の穴八幡宮前の坂の正面にあった。現在は大学の自転車置き場となっている。
 
※早稲田通り沿いにある穴八幡宮と水稲荷神社の先々代の宮司さんは兄弟

水稲荷.jpg

水稲荷神社の境内は子供たちのソフトボールのグランドとして遊んでいた。境内は狭かったので、すぐホームランになり、ボールは隣りの宝泉寺の墓場に飛び込んでいった。夕暮れ時ともなるとボールを拾いに行くのは少し薄気味悪かった。
今年(2014年9月)、40年振りに集った高校時代のバスケット・ボール部のOB総会が早稲田のまちの一番の老舗レストラン『高田牧舎』で開かれた。その場で、自分より2歳年上のY先輩(商学部卒)がソフトボールを自分と一緒にしたことの思い出話をしてくれた。Y先輩によると、ソフトボールの時に年少にもかかわらず自分がいつも仕切っていたと、その理由を笑いながら話してくれた。それはボールとバットを持っていたのが自分だったからだそうだ。自分はそんなことは全く記憶になかったが、1人ひとりが自分のバットやグローブを持つことが出来る時代ではなかった。


ある団塊 No.12 2014.11.23
 
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