2015年01月19日

ある団塊 中学受験に失敗

●中学受験に失敗 父に初めて叱責される
中学進学で。自分は区立の小学校で過ごしてきて、自動的に進学できる区立中学に入学するつもりでいた。それがなぜ自分が私立中学を受験したのか、記憶は定かではない。今思い返すと、父の勧めで私立の早稲田中学を受験することになったのだと思う。特に受験対策をすることもなく入試を受け、結果は合格することは出来なかった。※父が自分にワセ中を受けされたのは、父のすぐ上の戦死した兄が早稲田大学の理工学部卒業だった、父の“ワセダ”へのこだわりが何かあったのかも知れない。

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早稲田中学・高校 正門

「不合格になったのは自分が受験などしたくなかったかのに、無理やり受けさせられた」とのくすぶった思いの日が続いていた。そうしてダダをこねるようにして過ごしていたある日、何かのはずみで自分は父に向かって掴み掛っていった。父は咄嗟に大外刈りのような技で、自分は畳の上に叩き付けられた。父は陸軍時代、柔道と剣道共に4段の腕前だった。それまで父から怒られたり、殴られたりするような体罰を受けたことは一度もなかった。中学受験に失敗して子ども心に落ち込んでいたとき起きたこの“決して体罰ではなかった”出来事は、このとき一度だけだった。
だから自分は父からは殴られたり、暴力を受けるようなことは一回もなかった。

そんな経験が体に染みついていたからか、結婚した後に二人の男児の子育て最中では、自分も息子たちに手を挙げたり、暴力をふるうようなことは一度もしなかった。

ある団塊 
早稲田のまち青春爆走記 
小学校編 完

ある団塊 No.26. 2015.1.19.

2015年01月16日

ある団塊 駄菓子屋で万引きを

●万引き行為 大日坂の駄菓子屋で、大目玉を喰らう !

安倍球場の裏手の大日坂には、木造住宅が密集する地区があった。前述したように、早大生の下宿やアパートも沢山あった。早大生たちが住んでいた古い木造二階建てのアパートが何棟もあった。戦前、それらの建物は3畳間が連なる「達磨屋(だるまや)」と呼ばれた女郎屋だった。戦後、風俗営業法で廃業し、下宿に様変わりした。

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戦前、達磨屋と呼ばれた女郎屋だった木造アパート

その、あるアパートの隣りに「石川屋」という駄菓子屋があった。この駄菓子屋は自分の通う小学校の子どもたちの溜まり場だった。いつも子どもたちで店内は溢れていた。この店の店主の親父さんは斜視で、いわゆる“がちゃ目”だった。だから何処を見ているのか分からない。子どもたちの中には、がちゃ目の親父さんの目を盗んで商品をくすねていた。そんな噂が子どもたちの中で飛び交っていた。ある日、自分も親父さんの目を盗んで、直径1センチ程の細長いガラス瓶に入っていて、すすって食べる甘い味のする寒天棒をくすねた。しかし、自分のその行為はその時、親父さんの目に止まっいた。「こら ! 、今、何をしたんだ ! 」自分は親父さんから大目玉を喰らった。子どもと謂えどもこのことは所謂万引き行為だ。それ以来、この事件は自分への戒めとなった。

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 駄菓子屋の写真

ある団塊 No.25 2015.1.12

2015年01月03日

ある団塊 住み込み店員が早稲田のどの店にもいた

●住み込みの女性店員たち

●叔父の精肉店同様、我が屋の「松風」にも店の開店当初から住み込みの女性従業員が4人いた。皆、青森県出身の人たちだった。普段は2階の座敷で寝起きしていた。宴会のあるときは押入れの布団の上に個々の荷物や衣類は収納していた。大学が夏休みのときには、従業員達と共に各地の温泉地を訪ね歩いた。やがて高度成長期に入り、自分が高校の頃(昭和37年前後)になると皆、大手企業の工場などに転職していったが、ときどき懐かしがって我が家を訪ねてきた。

●自分の実家の隣りは「鶴菊」というビリヤード店があった。昭和30年代の前半までは地図を販売する店を営んでいた。大隈通り商店街にはもう一件地図の専門店があった。戦後からこの頃に掛けて日本は登山ブームで、早稲田大学にもご多聞に漏れず登山愛好家の学生たちが大勢いて、これらの地図屋さんには日本全国の山岳地図が取り揃えられていた。当時、早稲田大学登山部は世界の冠たる名峰を次々踏破し、国内の大学の登山部ナンバーワンの存在だった。しかし南アメリカのペルー山脈のある山を登山中に部員が転落死を起こしたり立て続けに遭難事故を起こし、名門早稲田大学登山部は大学当局から一時廃部されることとなった。

このビリヤード店の経営者は父とほぼ同年代の立教ボーイのしゃれた親父さんだった。このビリヤード店にも住み込みの女性店員さんが4〜5人いて、女給さんと呼ばれていた。このビリヤード店では寿屋(サントリー・旧社名)トリス・バーも併設して経営していて、彼女たちが掛け持ちでこのトリス・バーで働いていた。

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寿屋トリス・バー 写真

自分も高校生時代、我が家の隣りにあるビリヤード店で時に徹夜をするほど、玉突きに夢中になっていた。段々腕が上達するにつれ、ビリヤードにおいて初心者、初級者からは憧れみたいな高等技術として、マッセショット「手球(白いボール)を上から撞いて強い回転をかけてカーブさせたりするショット」や、ジャンプショット「キュー(球を撞く棒)を上から撞き下ろし、テーブルの手球を飛ばすショット」ができるようになった。しかし時々マッセショットを行って、ビリヤード台のラシャ張りの布地をキュー先で破ってしまうこともあった。

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ビリヤード グランドマッセの姿勢

大隈通りの大学正門付近に稲門堂という政治経済学部の教科書を販売する書店があったが、この書店のご主人もビリヤード店の常連で、ある女給さんと結婚した。ところが数年経っても子宝に恵まれず離縁し、このビリヤード店の別の女給さんと再婚。この女性との間には一男一女を授かったが、まだ当時は子どもに恵まれない女性を“産まず女”などと称して、戦後にもかかわらず平然として離縁・再婚が行われていた。

http://matome.naver.jp/odai/2138319332138548401

ある団塊 No.24 2015.1.3.
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