2014年12月26日

ある団塊 自分もいじめっ子だった

●自分も“いじめっ子”だった
実は、自分はいじめっ子だった。小学校の帰り道が一緒だった同級生のS.S夫君を、いつも家来のように従えていた。当時、プロレスが全盛期の時代だった。

「プロレスごっこ」という“いじめ”

テレビで見たプロレスの技をまねて、自分で開発した“新技”をS夫君に掛けると、その都度S君は「効いた、効いた、今までで一番効いた ! 」と反応してくれるのが、何故か快感だった。
彼は、とてもおとなしくて、やさしい人柄だった。そんな彼を、自分はいつも家来のように従わせ、今でいえばいわゆる“いじめ”という行為をし続けていた。彼の家は早稲田大学南門前にある早稲田の老舗レストラン・高田牧舎の裏にあった。四人兄妹の三番目だったS君は中学卒業後、郵便局に入り、その後タクシーの運転手となったと、3年ほど前に妹さんから聞いたが、実家には全然立ち寄ることもなく、音信不通とのことだった。

S夫君、あの頃はごめんね !

●昭和のエピソード
茨城県下妻市の吉原酒造(清酒正成や筑波誉などの醸造元)に嫁いだ自分の伯母(父方)の家にはまだ当時、非常に高価だった白黒のテレビがあった。プロレスの実況があるとはには、地域の人々が黒山のように集まってきた。
昭和29年、力道山・木村正彦VSシャープ兄弟のタッグマッチがテレビ中継で行われた。まだ敗戦に打ちひしがれていた日本国民は、力道山が白人のシャープ兄弟(カナダ国籍)に空手チョップを打ち込む度に大熱狂した。昭和32年には世界ヘビー級王者であった“鉄人”ルー・テーズの招聘に成功。その翌年に力道山は渡米してテーズとの再戦に挑み、インターナショナル選手権を獲得した。日本プロレスにおける看板タイトルとして、日本で防衛戦を行った。
また昭和38年の力道山VSデストロイヤー戦では、テレビの視聴率は64% にも上った。
●名(迷)レフリー沖識名
力道山の試合ではか必ず沖識名がレフリーをしていた。沖識名はハワイ人でプロレスラーとして活躍していた。力道山をプロレス界に導いたいわば生みの親だった。力道山が対戦相手にリング外に放り出されて場外乱闘となるときには1カウント1秒のはずのカウント(10カウントで敗戦)が時には2秒、3秒と長くなっていた。そして力道山かリングのロープをくぐるやいなや直ぐに9カウントとなり辛くも10カウントを免れ、対戦相手はリングに戻れず力道山が勝利。そのスリリングさに大衆はやんやの喝さいを送った。
※力道山は日本併合下の北朝鮮で現地人の両親のもとに生まれた。後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となった。



1963年5月24日東京で行なわれた試合  視聴率64%

1963年12 月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と足を踏んだ、踏まないで口論になり、馬乗りになって殴打したとこ ろ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり表沙汰にはせず、知り合いの勤める山王病院に入院。12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。

ある団塊 No.21 2014.12.25.










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