2015年02月03日

ある団塊 中学編までお休みをいただきます

●半分都会っ子、半分田舎っ子

●自分は子どもの頃のほとんどを早稲田のまちで育ったが、父と母の実家が茨城県にあり、小学生から高校生の頃までは夏休みを中心に双方の実家でよく過ごしていた。そんな訳で自分は都会育ちではあるが、田舎で過ごした時間も相当のものがあった。
父の実家は筑波山を望む葛城郡下平塚(現在のつくば市)で350年続く地主の家だった。屋敷林に囲まれた1000坪ほどの敷地の中に母屋と、離れには書院と呼んでいた別棟があり、自分は父の実家ではいつもこの書院で寝起きしていた。書院には10畳ほどの部屋が4つあり、それぞれの部屋は重厚な襖で仕切られ、欄間には鷹や雉などの野鳥が彫り込まれていた。トイレがやたら広くしかも汲み取り式なので、普段東京では狭い水洗トイレに慣れていたせいか用を足すときはどうも落ち着かなかった。それに便器の蓋をあけると黒い地蜂が必ずブンブンと尻の下を飛び回るので刺されたら大変と気になって仕方なかった。この蜂は人を刺すタイプの蜂ではないとやがて知った。書院の隣りの小高いところには土蔵があり、ここは自分にとってワンダー・ランドともいえる空間だった。日本刀や軍刀、薙刀、そして錆びて使い物にはならない38式の銃などもあった。これらを持ち出して庭で振り回したりしていると、気分は剣士そのものになったものだ。
     
●蔵の中の急な傾斜の梯子を上ると、二階には古文書や父や父の兄弟達の夥しい数の哲学書や歴史書などが山のように積まれていた。中学生の頃までは自分はこれらの書物にまったく興味を持たなかった。高校の2年頃になって義伯母の名前が着込まれているほこりにまみれた志賀直哉の『暗夜航路』を手にし、始めて夢中になって小説を読むようになった。主人公時任謙作の生き様に自分を重ね合わせ、夜を徹して読んだことを思い出す。また、土浦中学(旧制)といった学校名と父や父の兄弟達の名前が書かれている日本史の本などを手に取ると、名前以外にも“八紘一宇”とか“五族協和”といった当時の私には訳のわからない文字が毛筆で書かれていた。自分もこうした書物に徐々に興味を示すようになっていった。ろくに読書などしなかった自分が多少なりとも書物を読むようになったのは、この蔵の中での“知的な遭遇”があったからだと思う。

 ある時なぜ思い立ったのかは覚えていないが、祖父に色紙を書いてもらったことがあった。当時85才ぐらいだった祖父は、やおら筆をとり“修身斉家”と書き出し、次の行に移ると“光陰如矢・少年易老・學易成”と結んだ。自分は自慢ではないが高校では漢文はまったく分からず答案用紙は白紙で出したりした。漢文のM先生が点をつけてその答案用紙が戻ってくると、答案用紙には点の代わりにいつも“You are fool”と、真っ赤な筆文字でそう書かれていた。そんなくらいだから、祖父に書いてもらった色紙の意味はわからないまま大事に東京へ持ち帰った。その色紙を父に見せると父がいきなり大笑いした。こういん父にその理由を聞き、ようやく色紙に書かれた文言の“意味”を理解した。この色紙のおかげで自分は“學成り難し”を“学問は成り易し”と読みり違え、今日までろくな勉強もしないままの人生を歩んでしまったような気がする。

●祖父と一緒にとった写真をみると、祖父はいつも背広を着て胸にいくつもの勲章をつけていた。日露戦争で軍曹として203高地でロシア軍と戦った祖父が明治天皇からもらったいくつもの自慢の勲章が誇らしげだった。祖父が亡くなり形見分けをしているとき、自分は祖父が愛用していた銀製の懐中時計を求めたが、伯父が「これは明治天皇から下賜されたもので、櫻井家の家宝のようなものだ」といって仕舞い込んでしまった。
祖父は煙草を吸っていたので小学生だった自分も隠れていたずらで祖父の煙草を吸うようになった。祖父は「新生」という煙草をはさみで一本を三つに切り、キセルで吸っていた。時には葉煙草をキセルに詰めて吸うこともあった。
祖父や付近の男たちは縁台を出してよく将棋を指していた。田舎では娯楽も少ないから将棋は大人も子どもも夢中になって指していて、そのまわりはいつも人だかりがしていた。自分もそんな縁台将棋を見ているうちに誰から教わることもなく、将棋を覚えるようになった。だから、そのような環境で育ったので、小学校では将棋は強かった。

●田舎で東京育ちの自分が地元の子ども達と一緒に遊べるようになるのにはテクニックが必要だった。東京弁を話す私は地元の子ども達にとっていけ好かない存在であり、なかなか仲間には入れてもらえなかった。
それでもあきらめずに集団にくっついているうちに、茨城なまりが少しずつわかるようになってきた。「チクだぁ」は「嘘だ」であり、「んだちけなや」は「そうだってね」「んだども」は「だけど」といった言葉を自分でも自然に口に出来るようになってきた。茨城弁は方言の中でも汚い言葉の代表格のようによく言われるのももっともで、その極めつけは言葉の語尾に付く、相手に「だよネ」と念押しの意味に使う「だっぺ」だ。この「だっぺ」がつく会話が飛び交うのを聞くと、さすが日本一汚い方言と認めざるを得ない。しかし東京っ子の自分が「だっぺ」を自然に言えるようになると、田舎の子ども達は私を仲間として受け入れるようになっていった。

田舎の遊びはザリガニ取りやとん取りなどほとんどが自然相手だ。田んぼでドジョウを手掴みで捕ったり、小さな小川を堰き止めてタナゴやフナを捕まえたり、田舎での遊びは都会っ子の自分には楽しくてたまらないことばかりだった。生まれたばかりの地もぐりという蛇を捕まえて東京に持ち帰った時は、さすがに家族からひどく怒られた。

●一人遊び
..◍自分の父(四男)の男兄弟は6人だった。長男と三男は戦死。次男の伯父は戦死した長男の未亡人となった義理の姉との逆縁の結婚だった。戦後このような例は全国に多々あった。自分が小学校3年の頃、逆縁夫婦に男児(自分にとっては従弟)が誕生した。それまで父の実家で夏休み等長期滞在して過ごしていたときは、祖父母や伯父や伯母達から自分は一心に可愛がってもらっていた。それが事態は一変し、祖母や伯母は生まれてきた赤子の世話で係りっきりとなり、自分の世話どころでなくなってきた。今までのように世話を焼いて貰えなくなったことに子ども心にむしゃくしゃして、一人、筑波山に向かって「馬鹿野郎 ! 」と叫んだりしたことを鮮明に覚えている。生まれて間もない従弟へり嫉妬心なのか、自分の目には筑波山が霞んで映った。

◍鬼蜘蛛退治
鬼蜘蛛退治をしたのも、そんな寂しさを紛らわすための心の荒んだ状態だったからか。屋敷の敷地内には夕方頃になると屋根の下や電線と木々の間に大きく蜘蛛の巣を張った鬼蜘蛛が現れてきた。それらの鬼蜘蛛を竹竿で絡め取って地面に落とし、その上に農作業用の揮発油をかけて火をつけて、焼いたりしたことがあった。いまから考えてみると害虫でもなんでもない鬼蜘蛛には実に残酷なことをしてしまったものだ。

.◍蝉捕り
東京の夏の蝉はほとんどがアブラ蝉だった。茶褐色の胴体に少し黒っぽい羽根。鳴き声はただ、ジージーと泣き続けるだけ。捕獲しても、数も多いから、少しもワクワク感が得られない。だから東京でアブラ蝉以外のミンミン蝉やそれより少し姿の小さいツクツク法師の鳴く音を聞くと、思わず小躍りしたくなるように心が高まった。
それが関東の名峰・筑波山を西に望む地にある父の実家の周辺には、早稲田のまちでは滅多にお目に掛かれない、透き通った羽根のミンミン蝉やツクツク法師、朝夕にカナカナカナカと鳴くヒグラシがいくらでもいた。都会育ちの少年はこれらの蝉を追って一日中野山を駆け巡った。自分にとって田舎はまさにワンダー・ワールドそのものだった。

.◍誰もが皆夢中になった赤とんぼ捕り
夏の終わりの頃になると、あたりには降って湧いてきたように多くの赤とんぼが飛び交うようになった。あちこちの木の枝先や収穫前の稲穂の先などに止まった時、子どもの頃に誰もがやった赤とんぼ取りに夢中になった。止まっている赤とんぼに向かって少し離れたところから人差し指を大きく回しながら近づいていく。だんだいその指の回転の輪を小さくしていくと、赤とんぼは眼をクリクリと回し指先に焦点を合わせてくる。そしてほんの数センチまで近づいた瞬間に、広げている羽根を指で軽く挟むようにして掴む。捕った赤とんぼは最初のうちの3,4匹は左手の指の間に挟んで持って、また次のトンボを追い駆ける。するとたちまち左手だけでは足りなくなり、そのうちポケットまで使い始めて捕ったトンボをしまい込む。そんなことを小一時関ほどしていると日も沈んできて、家に戻るときを迎える。捕った赤とんぼを空に放つと、すっと風に吹かれたように空に舞い上がっていった。

.◍土蜘蛛捕り
家の柱の下の周囲や塀の地面に接するあたりに、土蜘蛛の巣がのびている。その巣を先端からそっと少しずつ引っ張っていくと、7,8センチほど先に小さな楕円状の中に土蜘蛛が入っている。それを取り出すと中から赤茶色の6,7ミリの土蜘蛛が出てくる。一匹取り出すと、また次の巣を見つけては繰り返す。どうということもない時間が、そうして過ぎていく。

.◍蟻地獄
土蜘蛛と同じようなところに、サラサラな砂状の逆円錐形をした幅2,3センチで深さ2センチほどの穴が蟻地獄の巣だ。あたりで見つけたアリを捕まえて、その中に入れる。すると、アリがそこから出ようと懸命にもがいていると、逆円錐形の底からサッと蟻地獄が頭の先端のハサミで挟み込むようにして、土の巣の中にくわえ込んで、あっという間もなく姿を消す。姿はほとんど見えない。どんな形をしているのか。次の蟻地獄で同じようなことをする時に、蟻地獄がアリをくわえた瞬間、手でサラサラな土を掘り起こすと、砂状の土と同じ色をした蟻地獄の姿が現れる。
.◍こうして、一日中飽きることもなく田舎の時は過ぎていった。

● 夏の夜中のスイカの見張りやぐら
父の実家ではスイカも生産していた。その頃田舎ではスイカ泥棒が横行していた。スイカが熟れてきて出荷時期になるとスイカ泥棒の侵入を見張るため、集落の成人となっていた若者達がスイカ畑の中央に矢倉を建てて、一晩中数人でその上で過ごし、見張りをした。ところが矢倉の上ではやがて酒盛りが始まり、まだ未成年だった自分も加わることとなり、すっかり大人になった気分を味わった。酒の肴には夕食時に揚げておいた野菜の天ぷらや、誰かが家に戻って井戸水で冷やしておいたトマトやキュウリなどを持ち寄ってきて、深夜の酒盛りが繰り広げられた。明かりは発動機を使って灯していた。この野菜の天ぷらに、筑波山周辺の地域では皆、ソースを掛けて食べていた。東京育ちの自分にとって天ぷらは大根おろしを入れた天つゆで食べるのが普通だったので、ある種のカルチャー・ショックを感じた。しかしこの食べ方もいざやってみると、それなりに行けるなと思うようになった。

●父の実家にはハーレーダビットソンやトーハツ(東京発動機)のオートバイが何台かあった。中学を卒業し、高校に入学する前の春休みのことだった。伯父に頼まれたのか自分から申し出たのか覚えていないが、仕事の手伝いで隣村から、発売されて間もないホンダスーパーカブのオートバイ(通称・原付きバイク)に30kgはある豚のえさを積んで砂利道を走っている時に転倒。弾みで左足が豚のえさの下敷きになり、とがった石で足の甲を貫通する大怪我を負った。
※この話には、高校入学式の翌日の後日譚がある(高校生活編冒頭参照)。

●伯母の嫁いだ造り酒屋
父の実家には男6人兄弟の一番上に、自分には伯母にあたる長女である姉がいた。伯母は嫁ぐ前まで実家にいたときは、土浦まで8里の道程を毎日、人力車で土浦高等女学校に通っていたと聞いた。嫁ぎ先は下妻市高道祖にある創業は江戸時代の造り酒屋で「正成」(後に筑波誉と改名)という銘柄の日本酒を醸造していた。
伯母は東京に来るときは必ずお土産に、見事な房についたバナナを持ってきてくれた。当時バナナは高級品だっった。しかも房毎のバナナなともなれば、滅多に目にすることができなかった。土産包みの包装紙を開けると、ぷーんと甘い香りが周囲に漂ったことを今でも記憶に鮮明に残っている。
伯母の家には5人の従兄妹がいた。一番下の従兄は自分より1歳上だったので歳も近かったこともあり、一緒によく遊んだ。造り酒屋だったので使えなくなった酒の仕込み樽が庭にはいくつも転がっていた。中に入っても子どもの身長なら立つことが出来、その木桶の中で立ったまま回転させたりして遊んだ。

●蜂の子取り
中でも蜂の巣取りはたまらなくスリルがあった。中校生の従兄が作業用のトラックを足長蜂の巣の下に乗り付け、運転席の窓を開けて長い竹ざおで蜂の巣を叩き落すのだ。そして急いで窓を閉め、攻撃してくる蜂をかわしながら一時蜂が立ち去った頃を見計らって、素早くドアを開けて地面に落ちた蜂の巣を拾った。しかしタイミングが悪いと車内に蜂が入ってきて大騒ぎになったりした。この蜂の巣から白い幼虫を取り出しフライパンで炒って食べるのがまた美味いのだ。熱々の炒った幼虫を噛むと口の中でプチッとはじけ、バターのような香ばしい匂いが口一杯に広がっていくあの味は今でも忘れられない。

●ナマズ釣り
伯母の家の近くには利根川の支流の小貝川が流れていた。ナマズ釣りは夕方頃、大きな釣り針にミミズを房掛けにして幾つかの仕掛けを葦の茂った岸辺に沈め、目印を付けた釣り糸を近くの木の根元などに括りつけておく。ナマズは夜行性なので仕掛けをそのまま一晩中放置しておき、翌朝になって引き上げると、掛かっている仕掛けはナマズは強烈に暴れる。釣ったナマズは早速料理する。ナマズは白身で、蒲焼にするとウナギよりさっぱりした感じてなかなかうまかった。その他フライにしても結構イケたし、洗いにして食べてもうまかった。

●秋の彼岸過ぎになると、酒蔵には新潟から杜氏が職人達を引き連れてきて、日本酒の仕込みが始まった。大きな木の樽に酒米と麹を混ぜて発酵させ、それが熟成し始まると樽に梯子を掛けて、それを繰り返し攪拌しながら醸造していくと翌年の3月頃には新酒が出来上がってくる。中学生の自分にも酒を仕込んだ樽から汲み出したばかりの原酒を振舞ってくれたが、大きめな猪口に注がれた原酒を半分も飲むとクラクラめまいがした。

●この造り酒屋を自分より12歳年上の東京農業大学を卒業した長男が継いでいたが、跡継ぎになると代々実名を「金次」という名に改名していた。跡を継いだ従兄は蔵元で働いていた女性と結婚しようとしたが、親族会議が開かれ、女性の家とは“家の格”が違う、ということで結婚に反対された。どうしてもその女性と結婚するのなら蔵元の跡継ぎを、次男に譲るということで話が決着した。都内のH大学理工学部を卒業してK工業で営業マンをしていた次男は、親族会議で紹介された女性と結婚し、蔵元の跡を継ぐこととなった。自分には理解のできない“世界”の出来事であった。

蔵元を継いだ次男の従兄は学生時代、早稲田に下宿していたので我が家にもよく出入りしていた。この従兄は自分にとっては少し年の離れた兄のような存在だった。ギターの弾き方を教わったり、その当時流行っていたトリオ・ロス・パンチョスのアルゼンチンタンゴのレコードを聞かせてもらったりした。時々映画にも連れて行ってもらった。従兄と新宿歌舞伎町のミラノ座で一緒に見た初めての洋画「アラモの砦」は、映画の主題歌を歌ったブラザーズ・フォーのメロディと共に、この映画を見たことで自分が大人の世界に一歩踏み込んだような気がしたことを思い出す。

●その後、次男の弟に造り酒屋の跡継ぎを譲った従兄は当の女性と結婚し、子どもにも恵まれてた。そして、茨城県や栃木県の農家と契約し、休耕田を借りてゴルフ場の芝を養成する事業に取り組み始めた。丁度ゴルフブーム到来の時代でもあり事業は成功。多数の作業員(社員)を抱えて、事業は着実に成長していった。岡倉天心の六角堂がある五浦海岸に別荘も購入した。長兄の従兄は元来ギャンブル好きだったこともあり、軍鶏(シャモ)を戦わせる“闘鶏”に入れ込み、関東一円で闘鶏が行われている開催地を訪ね回っていた。その挙句、何度も警察に始末書を書かされたりもしていた。

●長男に代わって、次男が継いだ造り酒屋の方は、日本酒にとって代わって、ビールや洋酒、そしてワインや焼酎と、時代の趨勢の中で経営不振となって行った。そして、灘の酒造会社による桶買いという仕組みで醸造権を譲り渡すこととなった。清酒の製造は免許制で、しかも生産量も酒造会社毎に決められている。従って大手の酒造会社は事業を拡大していくためには、地方で販売不振に陥ってきた酒造会社の免許を取得することで、生産量を増やす方法を行っていった。これがいわゆる“桶買い”だ。

悪いことは重なるもので、この造り酒屋を継いだ従兄は交通事故で意識が帰らぬまま長い間病床に臥せ、50代で不帰の人となってしまった。幸い不動産や田畑は代々受け継いできたものがあり、従兄の長男がコンビニを数店舗経営したりして、商売の姿を変えて代々の事業を継承している。

●エピソード
伯母の家にはまだ当時、非常に高価だった白黒のテレビがあった。プロレスの実況があるとはには、地域の人々が黒山のように集まってきた。
昭和29年、力道山・木村正彦VSシャープ兄弟のタッグマッチがテレビ中継で行われた。まだ敗戦に打ちひしがれていた日本国民は、力道山が白人のシャープ兄弟(カナダ国籍)に空手チョップを打ち込む度に大熱狂した。昭和32年には世界ヘビー級王者であった“鉄人”ルー・テーズの招聘に成功。その翌年に力道山は渡米してテーズとの再戦に挑み、インターナショナル選手権を獲得した。日本プロレスにおける看板タイトルとして、日本で防衛戦を行った。
また昭和38年の力道山VSデストロイヤー戦では、テレビの視聴率は64% にも上った。レフリー沖識名は(名/迷)レフリーで、力道山がリング外に放り出されているときには1コング1秒のはずのカウントが時には2秒、3秒と長くなり、力道山かリングのロープをくぐるやいなや直ぐに10カウントとなり辛くも力道山が勝利し、大衆はやんやの喝さいを送った。
※力道山は日本併合下の北朝鮮で現地人の両親のもとに生まれた。後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となった。

●田舎の野外映画館
伯母の嫁いだ下妻の集落では、ときどき近くの神社の境内で興行団がやって来て映画が上映された。映画会場の周囲をむしろで囲い、中の観客席にはゴザが敷かれていた 入り口のところだけはむしろが巻かれていて、そこで木戸銭を払い入場する。上映されていた映画は、晩年の“阪妻”こと阪東妻三郎「決闘 高田馬場」や「無法松の一生」、“歌う映画スター”第1号で名を馳せた高田幸吉の初期出演作品の映画などだった。この巡回映画会は夏休みに上演されることが多かったので、神社の境内の会場の中は真夏という事もあり、気温が暑いのと、映画に熱中する観客の人いきれとで、むんむんとしていた記憶がある。

●伯母の辞世 
伯母は亡くなったとき、辞世をを詠んでいた。その辞世が葬儀の際、参列者の前で披露された。「身はたとい 海の藻屑と なりとても 子等末永く 幸せあれと願う」
こんな感じの歌だったように記憶している。伯母は明治44年生まれだった。辞世を詠むことは明治生まれの人たちの“たしなみ”でもあった。
伯母からよく聞かされた歌がある。
日露戦争の際、203高地で激戦が繰り広げられて日本がロシアに勝利して、乃木将軍がロシアのステッセル将軍と会見した場所・水師営の光景を唄った軍歌

文部省唱歌「水師営の会見」(佐佐木信綱作詩 岡野 貞一作曲)

旅順開城 約なりて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と会見の 所はいずこ水師栄

庭に一本なつめの木 弾丸あともいちじるく
くずれ残れる民屋に いまぞ会見る二将軍

●田舎の日常生活
話は父の実家に戻るが、田舎の食事はきわめて質素だった。夏休みの頃は夏野菜が次々に育つ。ことに夏野菜の代表格のナスは味噌汁や漬物、炒め物と毎日必ず食卓に上った。朝作ったナスの味噌汁は毎日のように昼にも冷や飯にかけて食べるのだが、すきっ腹にはうまいものだった。味噌も食卓には欠かせない存在だった。当時の農家にはどこでも味噌や醤油の樽を置く味噌蔵や醤油蔵のようなところがあり、その付近に差し掛かるとプーンと香ばしい匂いがしたものだ。この時代の田舎にはおやつといっても菓子などはなかったから、腹が減ると祖母がにぎりめしに自家製の味噌を塗って食べさせてくれた。遊び疲れて腹を減らして家に戻ってきたときのこのうまさといったら例えようがないほどだった。我が家でも休みの日などは私が子ども達に味噌のおにぎりをよく作って食べさせると、現代生まれの子どもも喜んで食べ、子ども達の好物にもなっている。

●蜩(ひぐらし)
田舎の日が暮れる頃、日中目一杯遊んで、「カナ・カナ・カナ」と鳴く蜩(ひぐらし)の大合唱の中を家路につくときある日何故か、その音色は物悲しく自分の耳に響いてきた。蜩(ひぐらし)の鳴く合唱の音色は、現世から自分をまるで黄泉の世界へと引き込んでいこうとするような音色にも聞こえた。
 遊びの帰り道に、畑の中で夕日にさらされてぽかぽかになったトマトをもぎり頬張るのも楽しみだった。冷えてはいないけれど路地で栽培されたトマトはまだ熟していなく全体が青かったりして、かじると酸っぱさもあったけれど、一年中食べられる今のトマトとはまったく違う、深い味わいのある食べ物だったような気がする。

●秋の夜長の虫たちの合唱
夏が過ぎ、秋の気配がする頃になると、田舎の夜は秋の虫たちの鳴きの音で一色となった。松虫、鈴虫、コオロギ、ウマオイ、クツワムシ。
お彼岸になると、父の実家に墓参りに前日から出向き、泊まることがよくあった。その頃になるとこれらの秋の虫たちは、夜になるとそれは見事な鳴き声を奏で合っていた。コオロギは屋敷の周りのどこにでもいた。だが、他の虫は屋敷の周辺の田畑や草むらに行かないと、その鳴き声は聞けなかった。その鳴き声をそっと追って懐中電灯を片手に捕獲しようとしても、忍び足で近づいても直ぐに鳴き止んでしまう。
草木が朝露に濡れる頃や、草むらでじっとしている日中ときの方が虫は捕獲しやすかった。夜通し鳴いた虫たちは朝には鳴き止み、草むらで朝露を吸いながら過ごしている。大き目な虫網を草むらの上から被せるように押さえつけ、虫網の根元を片手で絞り込むようにしていくと、キリギリスやその他、何度か繰り返すうちにいろいろの虫たちが網に入っていた。うまく捕獲できた虫を腰に下げた竹かごに入れ、家に持ち帰りキュウリやナスなどの野菜の切れ端を餌にして飼うと、夜になると虫たちはいろいろな音色を奏でてくれた。

「虫のこえ」
作詞作曲者不詳/文部省唱歌(三年)
1.
あれ松虫が、鳴いている
ちんちろちんちろ、ちんちろりん
あれ鈴虫も、鳴きだした
りんりんりんりん、りいんりん
秋の夜長(よなが)を、鳴き通す
ああおもしろい、虫のこえ
2.
きりきりきりきり、きりぎりす
がちゃがちゃがちゃがちゃ、くつわ虫
あとから馬おい、おいついて
ちょんちょんちょんちょん、すいっちょん
秋の夜長を、鳴き通す
ああおもしろい、虫のこえ

●母の実家も、父と同じ茨城県の、常磐線の牛久駅近くの岡田村の在にある旧家だった。
江戸時代には500扶持の侍の家だったと聞いた。母方の祖父藤田慶三は40代半ばで蜂に刺されたショックで亡くなった。だから母方の祖父に会ったことはない。自分も一度足長蜂に刺されたことがある・祖母の名は「てる」。

●祖母の卵焼き
母方の実家を訪れるとまず迎えてくれたのが、祖母の作ってくれる卵焼きだった。母方の祖母は、小遣い稼ぎにニワトリの世話をしていた。当時、玉子は普段は食べさせてくれない贅沢品だった。一日置きに仲買人が集荷に来ると、祖母は玉子を一つ一つ新聞紙に包んで手渡していた。夏休みになって私が訪ねていった最初の日や冠婚葬祭で訪ねるとき、祖母は貴重な玉子を使って卵焼きを作ってくれた。祖母の作る卵焼きは少しだけ砂糖が入る醤油味で、醤油の風味がたまらなく美味かった。このしょっぱい卵焼きは私の味覚の原点ともなって、いまでも自分で作るときは必ず同じ味付けにする。付近の溜め池で時々自分がバケツ一杯にザリガニを取ってくると、祖母は「殻のしっかりした玉子をニワトリに産ませる」と言って、ザリガニを木槌でつぶしてニワトリに食べさせた。いくらづぶしたといってもザリガニの硬い殻をニワトリは食べられるのかと思ったりもしたが、ニワトリはザリガニの硬い殻を身も共に見る見るうちに食べていったのに驚いたことを覚えている。

●敷き板を湯に沈めて入る五右衛門風呂
母の実家の風呂は五右衛門風呂だった。風呂の小屋の外では祖母が薪をくべてくれながら湯加減を調節してくれた。風呂は母屋の外にあったので、雨の日には番傘をさして風呂場に行った。はじめて五右衛門風呂に入ったとき、鉄釜の中にいきなり入って、風呂の底に足が届いた際にその熱さに飛び跳ねてしまったような思いをしたよう記憶がある。祖母から五右衛門風呂への入り方を聞いて、風呂の脇にあった風呂の底に合わせたように丸く組んだ板を沈めながら入ることを知った。
その五右衛門風呂も自分が中学生になった頃には、母屋の中でプロパンガスで沸かしたり、自分で湯加減が出来るようになった。

●ウナギ取り
母の実家の裏庭の先には、川幅が1mもあるかないかの小川が流れていた。川の両側には初夏になると、ミョウガや赤紫蘇などが自生していた。ウナギ取りは夕方、小川に竹を細く割って組んだ、一升瓶の口の部分がもう少し太くなったような竹ひごの筒状の仕掛けを石のような重りをつけて沈めておく。細い部分の先端の内側には、一度は入ったらら出られないように逆方向に細く竹を組む。直径20cm・長さ80cm程の竹ひごの中に餌となる太ミミズを笹の葉などと共に入れ、入口を下流に向けて翌朝引き上げに行く。すると川海老に混ざってウナギが入っていることがある。田舎ではウナギ店のように背開きにした蒲焼にはせず、ただ筒切りにして醤油と味醂で甘辛く煮て食した。一緒に入っている川エビは、から揚げにして食べるとうまかった。
また、この小川では下流の砂底付近では、金網のざるのようにもので川底をすくうと、シジミがいくらでも取れた。

●カスミ網と空気銃と散弾銃
カスミ網は法律で使用するとを禁じられていたが 孟宗竹の藪のようなところに仕掛けておくと、メジロやツグミなどいろいろな野鳥が掛かった。しかし集落の人たちは法律違反を承知でカスミ網をよく仕掛けていた。ウグイスに似たメジロは良い声で鳴くので愛好家の中で結構な値段で売れたからだが、それがカスミ網を仕掛けてまでメジロを捕獲する理由のようだった。

コジュケイはウズラを少し大きくした形の野鳥で、草藪や笹薮に生息していて、網を何カ所かに仕掛けておくと、捕獲できた。骨は少し硬いが、獲れると焼き鳥にしてこれを食べていた。
母の実家には自分より一回り上と、3歳上の従兄が2人いた。上の従兄は日中農作業をしていたし、下の従兄は水戸の近くの内原にある農業学校に寄宿していた。集落も父の実家より件数も少なく、自分と同年齢位の子どもはほとんど見かけなかった。だから日中はもっぱら一人で過ごすことが多かった。  
母の実家には、何種類かの口径の空気銃が数丁あったので、自分は日中、いつも空気銃を持ち歩いてススメ撃ちをよくやっていた。空気銃の弾の直径は4.5ミリ位か、口径の大きいのは6ミリ位のもあった。そのうち一日中追いかけて空気銃を撃ちまくっているうちに何日目かになると、スズメは、屋敷の周辺には一羽も寄り付かなくなってしまった。

上の従兄は農閑期にはよく狩猟を行っていて、茨城県のみならず、遠いところでは東北地方まで出掛けて行くこともあった。一度従兄に散弾銃を撃たせてもらったことがあった。弾の発射音の大きいのと、弾を発射する際の銃の反動で銃床が肩に食い込むように痛かった。過日久し振りに会った従兄は、長年猟銃を撃っていたため、両耳がよく聞こえなくなり、向き合って会話をしていても何度も耳に手を当てるようにして自分の話を聞いていた。

■お知らせ

いままでこの拙いブログをご覧いただき、ありがとうございました。
勝手ながら事情によりこの先、半年間ばかりお休みとさせていただきます。
自分には残された時間が少なく、あることに関して集中して時間を割かざるを得なくなりました。

再開の折には、またご愛読くださいますようよろしくお願い申し上げます。


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