2015年01月03日

ある団塊 住み込み店員が早稲田のどの店にもいた

●住み込みの女性店員たち

●叔父の精肉店同様、我が屋の「松風」にも店の開店当初から住み込みの女性従業員が4人いた。皆、青森県出身の人たちだった。普段は2階の座敷で寝起きしていた。宴会のあるときは押入れの布団の上に個々の荷物や衣類は収納していた。大学が夏休みのときには、従業員達と共に各地の温泉地を訪ね歩いた。やがて高度成長期に入り、自分が高校の頃(昭和37年前後)になると皆、大手企業の工場などに転職していったが、ときどき懐かしがって我が家を訪ねてきた。

●自分の実家の隣りは「鶴菊」というビリヤード店があった。昭和30年代の前半までは地図を販売する店を営んでいた。大隈通り商店街にはもう一件地図の専門店があった。戦後からこの頃に掛けて日本は登山ブームで、早稲田大学にもご多聞に漏れず登山愛好家の学生たちが大勢いて、これらの地図屋さんには日本全国の山岳地図が取り揃えられていた。当時、早稲田大学登山部は世界の冠たる名峰を次々踏破し、国内の大学の登山部ナンバーワンの存在だった。しかし南アメリカのペルー山脈のある山を登山中に部員が転落死を起こしたり立て続けに遭難事故を起こし、名門早稲田大学登山部は大学当局から一時廃部されることとなった。

このビリヤード店の経営者は父とほぼ同年代の立教ボーイのしゃれた親父さんだった。このビリヤード店にも住み込みの女性店員さんが4〜5人いて、女給さんと呼ばれていた。このビリヤード店では寿屋(サントリー・旧社名)トリス・バーも併設して経営していて、彼女たちが掛け持ちでこのトリス・バーで働いていた。

トリスバー写真.jpg

寿屋トリス・バー 写真

自分も高校生時代、我が家の隣りにあるビリヤード店で時に徹夜をするほど、玉突きに夢中になっていた。段々腕が上達するにつれ、ビリヤードにおいて初心者、初級者からは憧れみたいな高等技術として、マッセショット「手球(白いボール)を上から撞いて強い回転をかけてカーブさせたりするショット」や、ジャンプショット「キュー(球を撞く棒)を上から撞き下ろし、テーブルの手球を飛ばすショット」ができるようになった。しかし時々マッセショットを行って、ビリヤード台のラシャ張りの布地をキュー先で破ってしまうこともあった。

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ビリヤード グランドマッセの姿勢

大隈通りの大学正門付近に稲門堂という政治経済学部の教科書を販売する書店があったが、この書店のご主人もビリヤード店の常連で、ある女給さんと結婚した。ところが数年経っても子宝に恵まれず離縁し、このビリヤード店の別の女給さんと再婚。この女性との間には一男一女を授かったが、まだ当時は子どもに恵まれない女性を“産まず女”などと称して、戦後にもかかわらず平然として離縁・再婚が行われていた。

http://matome.naver.jp/odai/2138319332138548401

ある団塊 No.24 2015.1.3.

2014年12月30日

ある団塊 11歳のオートバイ少年

●バイクで早稲田のまちを駆け巡る小学生

都電早稲田停留所のすく近くに、虎屋という和菓子店の隣りで精肉店を営む叔父の店があった。この店は当初自分の父が支店としてラーメン店を営んでいた。それを、プロのカメラマンで生計を立てようと目論んでいた父の弟(自分の叔父)がまずは独立して食べていけるよう、自分の父が店を兄弟の末っ子の弟にこの店を譲り渡した。店には、配達用の本田スーパーカブが2台置いてあった。自分より少し年上の中卒の住み込み従業員が二人いて、彼らがこのバイクを配達に使っていた。

カブ 竹製の二籠 写真.jpg

ホンダ・スーパー・カブ 竹製の荷かごを積んだ 50CCエンジン

自分はこのバイクのシートに座ってエンジンをかけることが好きで、よくやっていた。エンジンを掛けるとバイクの軽快なエンジン音が体に響いてきた。そして衝動的に自分でオートバイを運転してみたくなった。荷台には配達用の大きな竹製のカゴが取り付けられたままだった。以前から大人用の自転車は、三角乗りで乗りこなせていたので、オートバイも運転できる自信は何となくあった。セル式(ハンドルについているボタンを押すだけ)のエンジンをかけ、スタンドをはずし、恐る恐るハンドルの取っ手部分のアクセルをひねると、オートバイをバランスよくスタートさせることが出来た。近くをぐるぐる回っているうちにすぐに運転は慣れてきて、少し先まで遠征してみることにした。

店の前を北の方向に直進し、豊橋を渡って神田川を過ぎる。その先にあるクランク型の道路を曲りながら豊坂までたどり着き、坂を登りきると目白通りとの交差点があり、赤信号だったために一時停車をした。道路の先には日本女子大学があるところだ。豊坂を登りきった交差店の左角には交番があった(今でもある)。すると大人にしては小柄な運転者であることにき気付いた交番の外にいたお巡りさんがバイクから降りるよう自分に命じた。交番の中に連れられ、未成年者でしかも小学生が無免許(当然免許を取得できる年齢ではない)で運転していたため、保護者名を尋ねられたので都電早稲田停留所の近くにある叔父の名前と店の電話番号を伝えた。お巡りさんはすぐに叔父に電話を掛け、甥を交番まで迎えに来るように伝えた。やがて叔父が来て何やら書類のようなものに記入をして、自分は叔父と共にバイクを押しながら店へと戻っていった。これがはじめての交通違反だった。

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日本女子大 豊坂交差点交番 写真


●余談
 昨年(2013年)、90歳になった叔父がつくば市から早稲田のまちまで、片足を失ってしまった自分を見舞いに一人でやってきた。積もる話をしているうちに、自分が小学生の頃に叔父の店のオートバイに乗って交番で保護されたことの話にも触れ、暴走少年の甥っ子についての思い出話に花が咲いた。それにしても90歳にもなっても叔父は元気で、若い頃写真家だったので数多く取り貯めた鉄道写真などをパソコン(DVD)に保存するために、帰りにはヨドバシカメラで必要な機器を購入していくとのことだった。自分達の団塊世代もこのような高齢者になっていたいものだ。

ある団塊 No.23 2014.12.30.

2014年12月29日

ある団塊 怪しげな家庭教師たち

●怪しげな家庭教師たち

我が家の店には顔見知りの学生も大勢訪れ、ある時父は鹿児島出身のKさんという柔道部の学生を息子の家庭教師に付けた。彼の勉強はいつも脱線し、何故か小学校では学んでいない英語の発音まで自分に教え始めた。ことに冠詞の“the”を、舌を前歯に付けるようにして“ザ”ではなく“ズィ”と発音するのが正しいと盛んにやって見せた。だが、普通に話しているときにも激しい鹿児島訛りが英語と混じりあっている。教わる側には何が何だかさっぱりわからない家庭教師だった。勉強が終わると父はご機嫌になって彼に酒とご飯を振る舞うので、この家庭教師は毎晩“英語 ?”を教えに来るようになった。

すると松風の倅の家庭教師をすると、飯と酒を振舞ってくれるとの噂が広がり、柔道部やレスリング部やら剣道部やらの猛者たちが家庭教師を志願してきた。お陰で毎晩運動部出身の、家庭教師には到底向かない怪しげな“先生”が何人も我が家を訪れるようになった。そして武勇伝から性教育まで学ばされ、幅広い人格形成には大いに役立ったが、成績はさっぱり上がらなかった。

父は陸軍時代、柔道と剣道で4段の有段者だったので、そんなこともあって例え“怪しげな家庭教師達”であっても、運動部の学生達が好きだったのかもしれない。

この中の一人で仙台出身のレスリング部のIさんは、ある時酒に酔って、店の二階の宴会場の塗り立ての壁に、げんこつで大きなこぶしの跡をつけ、父からお大目玉を食らっていた。

このIさんが卒業後香港に渡り、警備会社の会長となり、レスリング部だったのが何故か香港の柔道オリンピック選手団長に就任して、香港ではすっかり名士となっていた。因みに息子さんの名前は「竜馬」と名付けていた。I氏は時々日本に帰ってきては、早稲田のまちでレスリング部のOB会があると、部では後輩にあたる、あのロサンジェルスとソウル・オリンピックでの二大会連続銀メダリストの太田章早稲田大学助教授が出迎えていた。人の人生とは分からないものだ。

早大 レスリング部練習場 写真.jpg


早稲田大学 体育館 写真

http://www.hkpost.com.hk/index2.php?id=9329 - .VKEFZV4gA

ここをクリック
Iさんのインタビューとそのオフィスの写真]

●大学の職員にもツワモノが沢山いた

 自分が小・中学生の頃、大学の職員にも夜毎、大学周辺で飲み歩いていたツワモノ職員がいた。しかも勘定は毎晩付けで早稲田界隈を飲み歩いていた。
庄司さんと小暮さん。中でもこの二人(S.Kコンビ)の体育局職員は早稲田界隈で付けで飲み歩くことで有名だった。二人は神楽坂の方にも足を延ばし、付けで飲み歩いていた。独身だった庄司さんが定年間際になって神楽坂の小料理屋の女将と結婚した、という噂を聞いた。これも噂話だが、庄司さんはこの小料理屋の借金を退職金で支払うことにして、その証文代わりに結婚したとのような話を人づてに聞いた。

神楽坂 小料理屋街 写真.jpg

神楽坂の小料理屋界隈

ある団塊 No.22 2014.12.29.
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