2014年12月12日

ある団塊 三畳一間のアパート

●三畳一間のアパート
この「神田川」を作詩した喜多條忠は自分と同じ年に早稲田大学に入学していた。昭和40年当時、地方出身の早大生は大学周辺の戸塚町(現在は西早稲田と町名改正)や鶴巻町、高田馬場、あるいは西武線沿線にある下宿に住むことが多かった。今式の風呂付ワンルームなどといった風呂のある下宿などは、賄い付きの下宿屋以外はまずなかった。だから下宿の住人たる学生たちは皆、下宿周辺の銭湯に入りに行った。下宿の部屋の広さは裸電球が一つ付いた三畳一間とか、せいぜい四畳半だった。
 
地方出身の学生にとっては、学費以外にアパート代や食事代なども掛かる。東京の大学で子弟を学ばせることは経済的に恵まれた家庭でないと難しかった。事実、昭和40年頃の団塊世代の4年制の大学への進学率は15%位だった。自分のクラスの中には、暑いときは除いていつも学生服姿の友人も多く、冬場にはパジャマの上から学生服を着こみ、ズボンの裾からはパジャマがはみ出ていた奴もいた。

自宅通学の自分にとって下宿生活が唯一うらやましかったことは、この「神田川」の歌詞の中にあるように彼女と同棲したり、彼女を部屋に呼んだりすることができたことだ。ある時、地方出身の友人が出掛けている最中に、ガール・フレンドを連れて彼の部屋に連れて行った。その頃のボロアパートには鍵など掛けていない場合が多かった。3畳一間の部屋は衣類や敷きっぱなしの布団などで散らかり放題で、灰皿は煙草の吸殻が山積みとなっていた。、その部屋の光景を見た途端、彼女は部屋への入室を拒み、引き返してしまった。このフォーク・ソングの舞台となった「安兵衛湯」も今ではマンションになってしまった。

3畳一間の部屋 写真.jpg

40年当時の3畳一間のアパート(イメージ)
トイレは共同だった

ある団塊 No.18 2014.12.12.

2014年12月08日

ある団塊 神田川

●神田川
自分が小学生の頃、神田川は近所の家庭や店のごみ捨て場同然だった。そして大雨や台風となると、神田川はすぐに氾濫し、グランド坂下にあった我が家もよく床下浸水したものだった。
伊勢湾台風があったもその頃のことだった。死者数は5000人以上を超え、戦後最大規模の自然災害だった。

伊勢湾台風.jpg

伊勢湾台風

伊勢湾台風 慰霊の碑.jpg

伊勢湾台風の慰霊の碑

『安兵衛湯』
自分が通っていた戸塚第一小学校の門のすぐ前には、同級生たちと時々入った「安兵衛湯」という銭湯があった。あの団塊世代の青春の思い出のフォークソング「神田川」の中の歌詞に登場する銭湯だ。

いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて 
小さな石鹸 カタカタ鳴った

安兵衛湯跡のマンション写真.jpg


安兵衛湯跡のマンション写真

安兵衛湯の写真.jpg

当時の安兵衛湯の写真


「神田川」
作詩:喜多條忠
作曲:南こうせつ

貴方は もう忘れたかしら
赤いてぬぐい マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに

いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私のからだを抱いて
冷たいねって 言ったのよ

若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった

貴方はもう捨てたのかしら
二十四色のクレパス買って
貴方が描いた 私の似顔絵
うまく描いてねって 言ったのに

いつもちっとも 似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴方は私の指先見つめ
悲しいかいって きいたのよ

若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった

神田川からアス西早稲田のビル 写真.jpg


神田川から望むアス西早稲田のビル(安倍球場再開発の地) 写真

ある団塊 No.17 2014.12.8.

2014年12月07日

ある団塊 箱根山と三角山

●その他の早稲田界隈の遊び場
●箱根山公園
箱根山(東京23区で一番標高が高い地点)、ここも旧陸軍の練兵場跡地だ。今の早稲田大学文学部キャンパスの先に連なる東京都立戸山公園の先端に、箱根山がある。東京・山手線内で一番高い標高44.6メートルの人工の山だ。戸山公園は江戸時代、尾張藩徳川家の下屋敷があり、回遊式庭園「戸山山荘」として整備された際に、池を掘った残土を積み上げ固めて造成された。頂上までは5〜6分で登れるが、周辺には森が茂り、公園全体が子どもたちには絶好の遊び場だった。

箱根山山頂.jpg

箱根山山頂付近

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箱根山への案内板

箱根山山頂の協会.jpg

箱根山山頂付近にある教会

●高田馬場の三角山
高田馬場戸山口の先、現在の理工学部キャンパスとの間(現・都営アパート団地)に「三角山」という高さ10メートル位の人工の円錐型の山があり、ここも旧陸軍の練兵場の一部だった。中央付近には人がやっと通り抜けるぐらいのトンネルが掘られていて、子どもたちには格好の遊び場だった。入り口から匍匐(ホフク)前進しながら細いトンネル(長さはせいぜい15メートル位だったか)を潜り抜けるといった他愛のない遊びだったが、中央付近は薄暗く、子どもの冒険心を大いに高ぶらせた。


大久保射撃場 理工科 三角山 位置.jpg

高田馬場付近にあった三角山の位置

高田馬場 三角山 写真.jpg

高田馬場付近にあった三角山の写真
左上にトンネルが見える

ある団塊 No.16 2014.12.7.
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