2014年12月05日

ある団塊 早大理工学部キャンパスは元陸軍射撃場跡地だった

●現在の早稲田大学理工学部大久保キャンパスのところには旧陸軍の射撃場があった。
 自分の通っていた新宿区立戸塚第一中学校の左先には、現在は理工学部大久保キャンパスとなっているが、その頃はまだ旧日本陸軍のドームというかトンネルのような射撃場があった。
ここもやはり甘泉園と同様、周囲は鉄条網で囲われていたが、自分達餓鬼どもは鉄条網を潜ってよくこの射撃場跡中に忍び込んだ。

ふるいとスコップを手にしてこの射撃場跡地のトンネルの地面を掘り、ふるいに掛けると、直径8ミリほど、長さ5センチほどの細長い機関銃のような砲弾や、コルトピストルの直径1センチ長さ3センチほどのずんぐり方の弾や夥しいほどの薬きょうが出てきた。このピストル・コルトの弾の真ん中の鉛の部分を火であぶり、柔らかくなったところに、女性(おふくろの)ヘアピンを差し込み、そこに針金か細い鎖のようなものを通して、ネックレス状にして首に下げ、仲間たちに誇らしげに見せたりした。

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コルト45の弾丸

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 旧陸軍の射撃練習場ドーム   

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 機関銃の弾丸

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小滝橋から箱根山周辺にいたる広大な地域が「陸軍戸山ヶ原演習場」だった。 この土塁の北側に7列の射撃場がならんでいた、早稲田大学理工学部の長方形がその名残である。

ある団塊 No.15 2014.12.5

2014年12月01日

ある団塊 大学のテニスコートと都電

●早稲田大学のテニスコート

現在、東京リーガロイヤルホテルの建っている所は大学のテニスコート5〜6面と冬の暖房用の石炭置き場があった。当時のテニス部には全日本選手権で優勝した宮城淳選手や石黒修等がいたと思う。テニスボールが塀を飛び越えて出て来た時は、それを拾って戻したが、たまにそのまま遊び用としてボールを失敬したこともあった。

●大学のテニスコートの前には都電が通っていた。当時は東京中に都電が走っていた。

 昭和30年当時、都電は高田馬場から早稲田を経て九段下や神保町行きの16番線が通っていた。
早大生の大部分は高田馬場からこの16番線に乗車、早稲田停留所で下車し大隈通り商店街を通って、東門や正門から各校舎に通っていた。だからその頃は大隈通り商店街は早大生が黒山のように往来し、我が家の店を始め大隈通りの商店は、大学周辺で一番賑っていた。

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東京都内都電路線図.jpg

 東京都内の都電路線図

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 早稲田行の都電



●都電の往復切符を買って、日曜日にはハゼ釣りに

16番線はさらにそこから先神保町を経て、洲崎行きの路線が続いていた。小学生の頃、学校が休みの日には、都電の往復切符を買って(13円位だった)、東雲(しののめ)・現在の東京メトロ有楽町線辰巳駅 −有明テニスの森公園付近までよくハゼ釣りに行った。

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ハゼ釣り光景

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現在の大学本部横には都電の車庫があった(現在は都バスの車庫と都営アパート)。上野広小路や浅草の厩橋に行く路線が39番線。こうして東京都内には都電が縦横無尽に走っていた。早稲田から大塚駅、王子方面から三ノ輪に行く路線が現在東京都内に残っている唯一の路線だ。
 
●同じく現在の大学案内所(カフェ125ショップ前)は、日本交通公社(現JTB)の早稲田支店があった。確か建物は当時のまま保存されている。
昭和40年代には早大生約4万人のうち、北は北海道から南は沖縄まで、7割が日本全国からの地方出身の学生だったから、JTBの早稲田支所は学生たちの帰省時や旅行などの電車や汽車、飛行機のチケットの取り扱い業務で大いに賑っていた。

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元日本交通公社(現・JTB)早稲田支店

●日本交通公社早稲田支店の奥には、まだ設立間もなかった早稲田大学生活協同組合の木造平屋の食堂があった。早稲田大学奥島康孝元総長は学生の頃、愛媛の実家からの仕送りもほとんどなく、この大学生協で毎日のようにサンマ定食を食べていたと、後に聞いた事がある。



ある団塊 No.14 2014.12.1.

2014年11月25日

二人の男と日本人の心

●『役者道』高倉健と『相撲道』白鵬
高倉健が亡くなった。男性の平均寿命が81歳の時代、83歳という年齢は決して短命ではない。しかし何故かその死が惜しまれる。
学生時代からそして社会人になってからも、昭和残侠伝シリーズ・唐獅子牡丹や網走番外地シリーズなど高倉健の映画は、東映の映画にもかかわらず、映画館は何故かほとんど高田馬場の早稲田松竹で観た。最終上映回は午後11時をすぎていたが、そんな時間帯でも立ち見も含めて立錐の余地もない程毎回、館内は観客で溢れ返っていた。

不条理な仕打ちに耐え、ついには復讐を果たす高倉演じる主人公は、自分はノンポリだったが学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男たちに熱狂的な支持を受けた。通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると皆主人公に自分を重ね合わせ、映画館を出ていったときのあの高揚した気分が忘れられない。

http://www.youtube.com/watch?v=Lf2HqsCoA0w

※高倉健 映画「唐獅子牡丹」 主題歌

その後『動乱』や『八甲田山死の彷徨』『幸福の黄色いハンカチ』など、高倉健は任侠路線から決別していくが、決して演技派俳優ではなかった。ただ、そのストイックな生き方といい、ベールに包まれた私生活といい、彼の生き様に強く惹かれるのは何故なのだろうか。「自分は常に日本人でありたい。世界のどこにいても、仕事でどんな役を演じても、自分は常に日本人です。」そう語った高倉健。
中国外務省報道官も、高倉健の死去について異例の哀悼の意を伝えるコメントを出した。

一方で、昨日大相撲で大鵬に並ぶ32度目の優勝を成し遂げた横綱白鵬。
「この国の魂と、相撲の神様が認めてくれたからこの結果があると思います」と語りながら目頭をぬぐう白鵬もまた、日本人以上に日本人の心を感じさせる。「角界の父・大鵬親方の偉大な記録に並んだことは、約束と恩返しができたと、そういうことです」。人生の師匠は大鵬と語る白鵬。

『役者道』と『相撲道』。二人が歩んできた“道”は違えども、共通するのは、“無骨”で“不器用”で“一途”な男の生き方。だから二人の『道=生き様』に人は共感するのだろう。
posted by DNO理事長 at 00:30| Comment(0) | 早稲田のまち便り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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